第二次世界大戦中の「大東亜戦争」は、日本をはじめとするアジアの多くの国々が参戦し、多大な被害が出た戦争です。この戦争において、コミンテルンという国際共産主義組織が、様々な形で日本に対して影響力を及ぼしていたとされています。本稿では、我が国における大東亜戦争時のコミンテルンの暗躍について、その背景や具体的な事例を中心に詳しく書いていきます。
そもそもコミンテルンとは?
コミンテルンとは、1921年にロシア革命の勝利を受けて結成された、国際共産主義組織のことです。正式名称は「第三インターナショナル」(Third International)であり、社会主義革命の国際的な運動を主導することを目的としていました。コミンテルンは、各国の共産主義者を結集し、世界革命の推進を図ることを目的としていました。
【設立の経緯】
1917年にロシア革命が勃発し、ボリシェヴィキが政権を掌握すると、世界各地で社会主義革命が勃発することが期待されていました。しかし、ボリシェヴィキが独裁的な政権を築き上げると、各国の共産主義者は、国際的な連帯を強化する必要性を感じるようになりました。
こうした中で、1919年にモスクワで「第二インターナショナル」が結成されましたが、各国の共産主義者からは批判が集まり、1921年にコミンテルンが結成されました。コミンテルンは、各国の共産主義者を結集し、世界革命の推進を図ることを目的としていました。
【コミンテルンの活動内容】
コミンテルンは、各国の共産主義者を支援し、共産主義革命を推進することを主要な活動内容としていました。そのために、以下のような具体的な活動を展開していました。
1,各国の共産主義者の支援
コミンテルンは、各国の共産主義者を支援し、組織強化やプロパガンダ活動の支援を行っていました。また、共産主義者同士の国際的な交流を促進することにも力を入れていました。
2,資金援助の提供
コミンテルンは、各国の共産主義者に対して、資金援助を提供することもありました。これによって、共産主義運動の組織強化やプロパガンダ活動が支援されました。
3,世界革命の推進
コミンテルンは、世界各地で社会主義革命を促進することを目的としていました。具体的には、各国の共産主義者を結集し、軍事的な反乱やゼネスト、ストライキなどの闘争を支援することで、各国の革命を推進していました。
4,反ファシズムの推進
コミンテルンは、ファシズムや軍国主義に反対する立場を取り、反ファシスト運動の支援を行っていました。特に、1930年代にはナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を受け、コミンテルンは反ファシズム戦線の結成を呼びかけるなど、積極的な対応を取りました。
【コミンテルンと大東亜戦争】
大東亜戦争中においても、コミンテルンは日本に対する影響力を行使していました。具体的には、日本共産党を通じて、日本の軍国主義に対する闘いを展開することを支援していました。このため、日本共産党は軍国主義に反対するプロパガンダ活動を展開し、日本の民衆に影響力を及ぼすことを狙っていました。
しかし、大東亜戦争中においては、日本軍がアジア各地で大きな戦果を挙げ、コミンテルンの影響力は限定的であったとされています。また、戦後の東京裁判において、日本共産党は非合法化され、コミンテルンも解散させられることとなりました。
【コミンテルンの創始者】
コミンテルン(第三インターナショナル)の創始者は、ロシアのレーニン指導下で活躍したコミンテルン第一書記のグリゴリー・ジノヴィエフと、ドイツ共産党の指導者であったカール・レーベという2人の人物です。
グリゴリー・ジノヴィエフは、本名をラデク・アプフェルバウムといい、1879年にウクライナで生まれました。ロシア革命後、ボリシェヴィキ政権下で革命運動を推進し、共産主義運動の指導者として活躍しました。1921年にコミンテルンが設立されると、第一書記に就任し、各国の共産主義者を結集して世界革命の推進を図りました。
カール・レーベは、1871年にドイツで生まれました。ドイツ共産党の指導者として、ドイツ革命を推進し、また、1920年代にはコミンテルンの結成に尽力しました。しかし、1921年に反乱を起こし、コミンテルンから追放されました。その後もドイツ共産党で活動を続けましたが、1932年に逮捕され、1933年にはナチス・ドイツによって投獄され、1944年に死亡しました。
これら2人の人物が、コミンテルンの創設に大きく貢献し、共産主義運動の発展に寄与しました。しかし、コミンテルンは、その後の時代においても、様々な批判を浴びることとなりました。その理由としては、各国の共産主義運動をソ連の利益のために利用したことや、強制的なスターリン主義政策を推進したことなどが挙げられます。
【コミンテルンと近衛内閣について】
コミンテルンと近衛内閣との関係は、大東亜戦争中の日本において重要なテーマのひとつです。近衛内閣は、1940年に成立した日本の内閣であり、大東亜戦争を主導する政権でした。一方、コミンテルンは、共産主義運動の国際的な組織であり、各国の共産主義者を支援することを主目的としていました。以下では、コミンテルンと近衛内閣との関係について、詳しく説明します。
【コミンテルンと近衛内閣との対立】
大東亜戦争中、コミンテルンは、日本共産党を通じて日本に対する影響力を行使していました。一方、近衛内閣は、日本の軍国主義政策を推進する政権であり、コミンテルンとは対立する関係にありました。
具体的には、近衛内閣は、日中戦争や太平洋戦争を推進し、アジアの覇権を握ろうとしていました。これに対して、コミンテルンは、日本の軍国主義政策に反対するプロパガンダ活動を展開し、日本共産党を通じて日本の民衆に影響力を行使することを狙っていました。
また、コミンテルンは、日本軍の戦争捕虜を勧誘して、共産主義者としての活動を行うように誘導していました。これに対して、近衛内閣は、捕虜を厳しく取り締まり、コミンテルンの影響力を抑制するための対策を取っていました。
【コミンテルンの影響力の限界】
しかし、大東亜戦争中において、コミンテルンの影響力は限定的であったとされています。日本軍の戦果によって、日本国内における軍国主義的なムードが高まり、コミンテルンのプロパガンダは、限られた範囲にとどまったとされています。
また、近衛内閣は、戦後処理において、共産主義者の弾圧を行い、日本共産党を非合法化するなど、コミンテルンの影響力を排除するための政策をとりました。これによって、コミンテルンは日本における影響力を喪失し、解散に追い込まれることとなりました。
【ロスチャイルドとコミンテルンの関係性】
ロスチャイルド家とは
まず、ロスチャイルド家について説明します。ロスチャイルド家は、ヨーロッパにおいて最も古くから続く銀行家・財閥の一つで、18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの各国に金融業務を展開し、各国の王室や政府に対して、融資や金融アドバイザー業務を提供していました。また、ロスチャイルド家は、20世紀に入ってからも、各国の産業・商業分野に投資し、巨額の資産を築いています。
【コミンテルンとロスチャイルド家の関係性について】
一部の陰謀論者は、コミンテルンとロスチャイルド家が結託していたと主張しています。具体的には、ロスチャイルド家がコミンテルンを支援し、共産主義革命を起こすことを目的としていたとされています。
しかし、これらの主張には、証拠がありません。実際に、コミンテルンは、共産主義者を結集し、世界革命の推進を目的としていましたが、その資金源として、ロスチャイルド家を明示的に挙げていたわけではありません。また、ロスチャイルド家も、自らの資金を共産主義革命のために提供していたという証拠はありません。
ただし、一部の歴史家は、ロスチャイルド家が、共産主義革命や社会主義運動に対して、積極的に反対したことを指摘しています。また、ロスチャイルド家が、第一次世界大戦中に各国の政府に融資を提供し、その資金が戦争の拡大を招いたことなどによって、一部の社会主義者から非難を受けたこともあります。しかし、これらは、ロスチャイルド家が、共産主義や社会主義に対して積極的に介入していたわけではなく、あくまでも自己防衛のために行った行動であったとされています。
【背景】
大東亜戦争が勃発する以前から、コミンテルンは日本の労働運動や青年運動、共産主義運動などに関与していました。1922年に結成された日本共産党(以下、日共)も、コミンテルンの支援を受けていたとされています。日共は、その後も組織強化を図り、1935年には日本共産党再建同盟を結成して、日共を再建しました。
一方、日本国内では、統制社会の構築や国家総動員法の制定などが進み、軍国主義色が強まっていました。このような状況の中、コミンテルンは、日本共産党を通じて日本の革命を支援し、軍国主義に対する闘いを展開することを目指していました。
【具体的な事例】
1,統一戦線策略
コミンテルンは、日本共産党に対して、統一戦線策略を進言していました。この統一戦線策略は、社会主義者や民主主義者、労働組合、農民など、様々な勢力を結集し、軍国主義に対する共同闘争を行うことを目的としていました。これによって、軍国主義に対する民衆の反発を高め、日本共産党の勢力拡大を図ることが狙いでした。
2,ソ連との密接な関係
コミンテルンは、ソビエト連邦との関係を密接にし、日本共産党に対してもソ連の影響力を及ぼしていました。具体的には、日本共産党の指導部がソ連に留学し、ソ連の指導者と接触することが多かったとされています。また、ソ連からの資金援助も行われ、日本共産党の組織強化に役立てられたとされています。
3,パンフレットやビラの配布
コミンテルンは、日本に対してパンフレットやビラを配布するなど、プロパガンダ活動を行っていました。これらのパンフレットやビラには、軍国主義に反対するメッセージが盛り込まれており、広く民衆に訴えかけることが狙いでした。
4,戦争捕虜の勧誘
大東亜戦争中には、日本軍によって多くの戦争捕虜が出ました。コミンテルンは、これらの捕虜を勧誘して、共産主義者としての活動を行うように誘導していました。これによって、日本の戦意をくじくことを狙っていたとされています。
【まとめ】
以上、我が国における大東亜戦争時のコミンテルンの暗躍について、背景や具体的な事例を中心に詳しく書いてきました。コミンテルンは、日本共産党を通じて、軍国主義に対する闘いを展開することを目指していました。そのために、統一戦線策略やソ連との密接な関係、パンフレットやビラの配布、戦争捕虜の勧誘など、様々な手法を用いて日本に対する影響力を行使していました。大東亜戦争は、日本を含めアジアの多くの国々に大きな被害をもたらした戦争であり、コミンテルンの暗躍がその一因とも考えられています。