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日本軍の戦闘機「二式単座戦闘機鍾馗」と「雷電」

2017.11.16

カテゴリ:その他

こんにちはー☆
今回は久しぶりに実在の兵器について書いていこうと思います。

今回は戦闘機についての話。
第二次大戦中の日本軍の戦闘機「二式単座戦闘機鍾馗」と「雷電」です。
二式単座戦闘機は陸軍の、雷電は海軍の戦闘機です。両者は似て非なるもの。よく比較対象にされます。それは何故なのかというとやはり同じようなコンセプトで同じような目標を持って開発されたからなのでしょう。


二式単座戦闘機と雷電


二式単座戦闘機は本来は重戦闘機として設計されました。が、当時は日本軍はまだ重戦闘機とはどういうものなのか、ということそのものが手探りであったために色々と発展途上の部分も多くあります。
雷電は最初から基地上空などを防衛するための陸上機として開発されました。海軍は海の軍隊ですから空母での運用を目的に開発された艦載機もあるのですが、それと区別するために局地戦闘機と呼ばれます。
基本的には基地に敵が来襲したときに迎撃する目的で作られているので航続力はそんなに長くありません。
その代わりに爆撃機を撃墜しやすいように重武装となっています。

それでは両者を詳しく見ていきましょう。


陸軍二式単座戦闘機鍾馗

二式単座戦闘機は中島航空で開発されました。機体はキ44と呼ばれます。当時、一式戦闘機(キ43)とほぼ同時に開発が開始されました。これは陸軍の新型戦闘機開発の要求に軽戦闘機としてキ43、重戦闘機にキ44をという2機種で中島航空が応えたということです。
軽戦闘機は主に戦闘機相手の戦闘を担当し、重戦闘機は爆撃機を相手にすることを考慮されたといいます。
同じ時期に開始された海軍の零戦が1機種で対戦闘機、対爆撃機の両方を対応しようとしたのに対しては対照的です。(このため海軍の零戦は重武装となった)
しかし陸軍では重戦闘機の開発の経験がほとんどなかったために試行錯誤が続きました。
爆撃機を相手にすることを考慮されたために旋回性能よりも速度と火力が重視されています。それまでの日本陸軍は軽戦闘機で格闘戦を行うのが空戦の基本であり、旋回性能は戦闘機の命だとパイロットたちは思っていたのです。
このために当初は使い物にならないのではないかというイメージを持たれてしまっていたようです。
陸軍の上層部もこれまでとは異なる性質の戦闘機には積極的ではなかったようです。
しかしちょうどこの頃、ドイツからメッサーシュミットBf109Eと共に来日したドイツ人パイロットが完成間もない二式単座戦闘機に試乗する機会があり、搭乗したドイツ人パイロットは「もしも日本軍パイロット全員がこの戦闘機を使いこなしたら日本の空軍は世界最強になる」とコメント。したそうです。これを受けて消極的だった陸軍もキ44の採用を決めたのでした。
機体の設計としては色々と特徴があります。当時入手可能だった大馬力エンジンが爆撃機用の大きなものしかなかったために機首は太く大きいものになりました。機首から胴体に向かって急激に絞り込んだ細い胴体をしています。
翼の強度が高く、時速800キロを超える急降下でもびくともしない。殺人的とも呼べる加速性能を持ち、力強い上昇力を備えた機体となったのです。
しかし加速性能を重視していたことから他の機種に比べるとかなり小さい主翼を持っており、着陸速度が高くて危険な機体だったとも言われています。ベテランパイロットでさえも視界が悪くて怖いと思うほどだったとのこと。ただしこの視界の悪さはあくまでも離陸滑走時のことであり、飛行中の視界は良好だったそうです。
武装は12.7㎜機関砲2門と7.7㎜機銃が2丁。重戦闘機と呼ぶにはあまり強力な武装ではありませんでした。ただし同時期に使用されていた一式戦闘機よりは遥かに大きな火力であるとは言えます。

二式単座戦闘機の実戦


登場した当初は日本軍が優勢であり、どんどん奥地へ奥地へと進撃している時期。このため少しでも航空機は航続力が欲しいという状況だったために航続力の短い二式単座戦闘機はあまり活躍の場がありませんでした。海外に展開していた部隊の一部に送られているぐらいです。
東京が初めて空襲されて以降は国内にも空を護る部隊が必要だということになって次第に二式単座戦闘機をメインで装備した部隊が編成されていきます。
こうして戦争後半の日本軍が劣勢になっていくに従い、活躍の場が増えていきます。
ちなみに二式単座戦闘機は対爆撃機ばかりの戦闘をしていたわけでありません。
速度と火力を重視して旋回性能はさほどだったとはいっても欧米の戦闘機に比べると旋回性能は上だったと言います。
戦後、二式単座戦闘機を調査した米軍の調査チームによると二式単座戦闘機は「日本陸海軍の迎撃戦闘機の中で最も優れている」という評価を受けたとのことです。

二式単座戦闘機

海軍局地戦闘機雷電


海軍の雷電は艦載機である零戦を設計した堀越二郎技士が主務となって開発に当たりました。翼や尾翼には零戦によく似たところも見受けられます。
最初に書きましたが雷電は基地上空を護るための局地戦闘機であり、爆撃機との戦闘を考慮して設計された機体となります。
陸軍の二式単座戦闘機と同じく速度と火力を重視していますが、その外観は二式単座戦闘機とは対照的です。
大口径のエンジンを搭載しているところは同じなのですが、機体は緩やかな流線型で尾部に繋がっています。
二式単座戦闘機はエンジンの直後から急激に細く絞り込まれた細い機体であるのに対し、雷電はずんぐりした太い胴体をしています。
これは設計の思想の違いです。
雷電の設計は表面積と重量が増えるのが欠点ですがプロペラ推力有効面積が増えることが利点です。二式単座戦闘機はその反対で表面積が小さくて軽い代わりにプロペラ効率を生かしにくくなるということ。これもどちらが優れているかは何とも言えない。

武装は重武装で主翼に20㎜機関砲を左右2門ずつ、計4門搭載しています。防御力の高い爆撃機をできるだけ一撃で撃墜しやすいようにとのことですね。

雷電

雷電の実戦


日本海軍は零戦の後継機の開発がうまくいかず、有力な戦闘機がなかなか登場しないままに本土防空戦に突入していきます。
戦争後半になると日本各地も空襲されるようになり、B29が日本の空を飛び回るようになります。
B29の空襲は最初は昼間に高高度で行われていました。低い高度で来襲すると爆撃の命中率は高くなるものの、日本軍戦闘機の迎撃を受けるため損害を出してしまう。
スーパーチャージャーなどの過吸機を装備していない日本軍戦闘機は空気の薄い高高度では劇的に性能が落ちるのです。
高い高度で爆撃すれば損害はあまり出ない。しかしそれでは爆撃目標を破壊できない。
雷電に限らず、日本の陸海軍の戦闘機隊は色々工夫してB29の迎撃に当たります。
しかし硫黄島が陥落すると、今度は米陸軍の戦闘機であるP51がB29の護衛について来るようになります。
また、日本近海にも米海軍の空母が出現するようになり、米海軍の艦載機も多く日本本土に現れるようになります。
雷電も二式単座戦闘機と同じく重武装で旋回性能があまり良くないという機体でしたが、敵の戦闘機相手に過酷な戦闘を繰り返していきます。


著名なパイロット


結局、日本の陸海軍の戦闘機隊はB29から日本を護りきることができませんでした。
B29の撃墜率は3%程度だとされます。
そうした中でもエースパイロットと呼ばれる操縦者が何人も登場しました。

陸軍の二式単座戦闘機のパイロットとしては飛行第85戦隊の若松大尉、第1野戦補充飛行隊の上坊大尉が有名です。
若松大尉は中国で米陸軍航空隊と激戦を展開しました。彼の撃墜数は18機以上とされていますが、その全てが戦争後半の日本軍が劣勢になってからのものであり、しかも全てが戦闘機です。若松大尉自身も戦死されていますが赤鼻のエース(プロペラスピナーを赤く塗っていたことから)として連合軍に恐れられたと言います。
上坊大尉は南方で活躍したパイロットで、ロケット砲装備の二式単座戦闘機(乙型)でB29を撃墜しています。
上坊大尉は確実な戦果としては約30機を撃墜したとされています。(資料によっては76機とも)そのほとんどは一式戦闘機による戦果のようですが。
上坊大尉は比較的近年までご存命だったので、当時のことを話した記録もあります。大変興味深いですね。

雷電のパイロットとしては第302航空隊の赤松中尉が有名です。
赤松中尉は零戦でも多くの敵機を撃墜していますが、特筆すべきは第二次大戦最強とされる米軍のP51戦闘機を雷電で撃墜していることでしょう。強敵である米海軍のF6Fも雷電で撃墜しています。
当時の海軍パイロットの中では彼の名を知らぬものはいないほどだったと言われています。


最後に


大平洋戦争時代の日本の戦闘機は、というより兵器全般に言えることですがまだまだ発展途上でした。
戦闘機にしても戦車にしても結局のところはエンジンがものを言うというところはあります。
そしてそれを完全なものとして生産する工業力が成果を左右するのです。
日本ではまだ自動車が珍しい頃にアメリカでは一般人が当たり前のように車に乗っていたわけで、この時点でもう一般人がエンジンにどれくらい慣れ親しんでいるかの違いが出ます。
どんなに優れた設計のものでもそれを生産する工業技術がなければ意味がない。
日本軍戦闘機は優秀でありながらも完全な状態のものを満足に供給できなかったのです。
さてさて。今回はそんなわけでちょっとマニアックな話。

たまにはそんなのもよかろーということで。
今回はここらへんで☆